CRIME OF LOVE 1
熱いシャワーを存分に浴びた男は、音をたててコックを閉めた。
肌を伝ってこぼれ落ちる水滴を毛足の長いタオルでざっとぬぐうと、ガラス張りのシャワーブースを出て厚いバスローブに身を包む。濡れた銀色の髪をまた別のタオルで無造作に拭きながら、大きな鏡を見やった。いつもと変わらぬ紫色の目がこちらを見返す。
自分はこの世界では、何と言ったか……そう、異邦人のはずなのに、外見だけからはここで生まれ、死んでいく者たちとまったく区別がつかない。奇妙なものだ。
そう言えば源氏の神子もあちらでは異邦人だったが、一見しただけでは違う世界からの来訪者などとは想像もできなかった。自分も外見だけなら、こちらにすっかり溶け込んでしまっていることだろう。コックをひとひねりすれば、湯があふれんばかりに出てくるこの世界の便利な仕様に体もすっかり慣れてしまったしな、と苦笑をもらす。
違っているのは中身だ。こればかりは、いかんともしがたい。
髪が乾くのを待ちながら ミネラルウォーターを飲み、窓の外を見渡して 煙草を一本くゆらした。
これから会う相手は煙草が嫌いだ。だが今日の話は短時間で終わりそうもないとわかっている。彼女の涙は見たくはない。……が。
薄青い空の淵をひたすように赤みが増している。もうじきこの部屋からも綺麗な夕日が見られるだろう。
2LDKで100平方メートルを超える 彼のマンションは横浜市内の丘の上に建っている。彼としてはどこに住もうがかまわなかったのだが、ここなら
都内の大学に通う彼女を迎えに行くのも便利だったし、美しい夜景を彼女が喜ぶだろうと思ってのことだ。もちろん、彼の予想通りだった。
ここで話をしてもよかったが、今夜は彼女が外で食事をしたいと言ったので、その際に話すことにした。それにこの場所では、話が核心に入るまでに彼女をベッドに連れ込んでしまうだろう。愛する女の涙を目にするよりは、愛撫に応えてもらされる甘い吐息や、うなされたように熱っぽく彼の名を呼ぶ声を聞きたくなるのが自然な情というものだ。
……何にせよ人目がある方が、まだしも冷静に話ができそうだ。
シルバーのアッシュトレイで煙草を消した。吸殻の片付けも濡れたタオルの洗濯も、通いのハウスキーパーがすべてしてくれるので、彼がわずらうことはない。
煙草の匂いを消すため……では決してないが、彼女から贈られた メンズフレグランスの霧をごく軽くくぐってから、服を身につけることにする。だが柑橘類とムスクの香りを透かして、懐かしくも厭わしい匂いが鼻先をふっとかすめた気がして眉根を寄せた。
――血の匂い。焦げた木と腐った肉の、胸の悪くなるような匂い。それらはすでに遠い過去のものとなったはずだった。
……いや。もうすぐ、だ。
素肌にシルクの アンダーウェア。いくら代用品が出ようとも、天然の絹が高級品だというのはどの世界でも変わらないらしい。彼にとっては、もっともなじみぶかい生地のひとつでもある。
今日の食事場所に合わせ、タイトなデザインのジャケットを選ぶ。シンプルなボトム、インにはレザーとニットのコンビのジップアップ。ジッパーを下げるのは喉の付け根のあたりまでにしておく(あまり下げると彼女がうるさい)。やわらかなカーフのベルトを締め、表皮に軽くシルバーが刷かれているように見える、優美なロングノーズの
靴を履いた。すべて黒だがそれぞれ素材が違うので重苦しくは見えない。
別に高級品でなければ駄目などとは露ほども思わない、それどころか着るものなど適当でかまわないはずなのだが、手触りのよいもの、何となく好みに合うもの……を求めていくと、どうしても高級な品に行き着いてしまうようだ。必要に応じて増えてきた服や靴は、決して多いとは思わないが……。
こちらに来てしばらくたったころ、彼女に連れられてのぞいたのは舌を噛みそうな名前の店ばかりだったが、置いてある品は上々で、気に入るものも多かった。今はふらりと買い物に行けば、新たな得意客である彼の嗜好をすでに熟知しているらしい店員が適当に品物を選んで出してきてくれるので、面倒も少ない。
そういった店を筆頭に買い物をする場所も固定化してきて、ここのところ買う際に値札も見ていない。カードのレシートに示されるとおりにサインをするだけだ。その程度ではまったく心配するに及ばないほどの収入を彼は得ている。
元の世界でも、権門に生を受けた彼には生まれ落ちた時より望みのままの贅沢が許されていた。とは言え、彼は同時に戦場に出ることを定められた武人でもあった。豪奢な殿上人の暮らしがごく日常のものであるのと同様、木の根を浅い眠りの枕にし、干し飯を齧る生活も厭いはしない。
もっとも戦さがないのが常ならば、暮らしもまた、平和なそれに染まっていくということなのだろう。けれど時には、水さえも血と泥に汚れた戦場が恋しいなどと言ったら、彼女に目を剥かれるだろうか……。